蔵田君主催の読書会に参加する

 どうもこのところ、五月病気味でやる気がなくなりボケーっとしていた。欝なので、ちょっと表へ出ようかと思っていた。それで、蔵田君主催の読書会に参加させていただいた。題材は岩井克人の『貨幣論』。集まっているメンバーは皆さんインテリで、社会的な身分も確立なさっていて、ジャーナリズムや現代文学の動向についてもとりわけ詳しく、はあ、凄い方たちもいるものだなあと驚く。皆さんのお話をお聞きするうちに、『貨幣論』のよく分からなかった所がいろいろと明らかになり、有益だった。しかし、ぼくはちょっと、空気の読めていない発言や行動をしてしまったのではないか。また、飲み会ではお酒を飲みすぎてしまったのではないかと、翌朝反省した。数々のご無礼、申し訳ございません。ご迷惑をおかけいたしました。 
 岩井克人の『貨幣論』は、ぼくは十分に理解できたわけではないけれども、『資本論』の「価値形態論」をシンプルにまとめていたりして、ロジックが明快で分かりやすい。ヘーゲル弁証法マルクスの価値形態論の連結、それらがアリストテレスヘラクレイトスとどう関わっているのか。また、ソシュールの言語論や、存在論と論理学との関係などについて、ぼんやりと考える。おそらく、「最後の審判」の日から数えて現在を眺めると、貨幣は価値を失ってしまうのだ、というくだりはこの書の一つの焦点だろう。「最後の審判」なんて仰々しい言葉を使わなくても、人間死ぬときゃ一人だし、死んだ後の世界でお金をもっていても仕方がないよ、とでも換言できそうだ。あえて「最後の審判」という比喩をもちだしているのは、資本主義には特有の時間意識がその貨幣の本質的な部分に内在し、それらが人間の行動と思惟を支配していて、それらは実は、キリスト教圏の歴史概念に由来するものだ、ということなのでしょう。たぶん。
 いまぼくは円地文子の小説『女坂』の問題について、考えている。明治初期、大金持ちの地方官吏が、妻妾を同居させ、さらには小間使いや長男の嫁にまで手を出す。奥さんは文句も言わず、旦那さんや息子や孫の不行跡の後始末をして回る。妾として十代半ばの女の子が人買いのように家に連れてこられて、中年のころに家から放り出されそうになるのだ。この物語をフェミニズム的、ジェンダー論的に読み解かねばならない。それは、価値形態論と、ポラニーと、ウォーラースティンと、言語論の方向からアプローチすべきであるように思われる。なんとなく。

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)