ミシェル・フーコー、渡辺 守章『哲学の舞台』

本書は
フーコーと渡辺の対談
フーコーによる日本での講演
・渡辺の解説
からなる
フーコーが、日本の読者に向けて分かりやすく自己の思想を語っている
「西洋的には前提」といったようなことにも反省が加えられていて、良い本である

しかし、フーコードゥルーズにある「精神分析学」への批判って、日本ではあんまり意味がなくないか?
だって、日本には、「主体」も「精神分析学」も「キリスト教」もないんだから
という疑いもありますけれども
いかがなんですか?
フロイトフーコードゥルーズなどの性欲論って、日本ではどの程度あてはまるのか
世界的に見て、セクシュアリテとは何なのか
などという点がおおいに気になります

フーコー
p.23 フーコーが興味を持つのは、「永遠なるもの」ではなくて「事件」
p.28 「ある種のヘーゲル哲学的・マルクス主義的歴史の概念がどのようにベルクソン哲学的な時間の特権視=空間の無視によって中継されているか」
p.30 中世では追放の刑が盛ん
p.35 構造主義は相異なる多様な時間を出現させた
p.50 デカルトからサルトルまで、主体は根底的な何物かであると考えられてきた
フロイトラカンバタイユブランショクロソウスキーはこれを解体した
p.70 性的行動の異常と精神疾患の関係は十九世紀になって主張されたものであり、それはブルジョワ的家族道徳の規範と密接な関係を持つ
フロイトにおける「神経症」の見分け方とは「神経症患者は、第一に働くことができず、第二に、正常な性的行動がなし得ない人間である」

渡辺守章
p.80 セクシュアリテ(性的欲望・性の領域)が成立するのは、性の真理こそ人間にとっての真理に他ならず、それは言説化されねばならない、という思想を前提とした
セクシュアリテを成立させ展開させているのは、「言説の秩序」であり、十九世紀に拡大した
p.87 告白においては告白する者が権力を握っているのではなく、言説化をそそのかす側にある。また、告白においては、そこに産出される真理は、「主体の学」の根拠となる
p.106 東洋的な「性愛の術」と西洋における倫理は対照的である
西洋における「解放すべき欲望」という考え方は、セクシュアリテの一構成要素であり、キリスト教の司教規律と良心の検討が他と区別して取り出したものである。それはキリスト教の告解の規律から精神分析に至る、自分自身の無意識の読解の中心を成すものであり、そのような「欲望」を中核に、自分自身についての意識、「主観性」が形成された

フーコー
p.122 フロイトが出発点としたのは「ヒステリー」
ヒステリーとは、自己の過去あるいは、自己の身体を忘却すること、あるいは認識しないこと
フロイトは、これを、主体による自己の欲望の忘却ないし否認だと考えた
これが精神分析の出発点となった
p.127 なぜ西洋人は、性についての真実を知ることのみを心がけて、その快楽を高めることを試みなかったのか
p.130 一夫一婦制を強制し、性に生殖の機能だけを認め、性的快楽に価値を認めない
そのような文化を作ったのはキリスト教である
という説は、実は間違いである。ローマ世界にそれらの習慣はすでに存在していた
しかし、キリスト教は、そこに、「新しい技術」を導入したのである
それが、<牧人=司祭制>の権力である
p.137 その権力は、移動する多様な構成員に働きかけ、権力者側の自己犠牲を旨とし、個人を対象とするものである <牧人=司祭制>において生きる個人は、自らを救う義務がある <牧人=司祭制>においては、各個人のなかに「真理」が産出され、この「真理」が羊と羊飼いを結びつける絆となる
p.155 権力の行使を哲学が組織化する。
たとえば、ナポレオン帝国と、ルソーをはじめとする十八世紀フランスのイデオローグ、プロイセン国家とヘーゲルヒトラーニーチェソ連マルクス
p.176 個人が主観性という形で自己と持つ関係は、実は権力の関係なのではないかと問うべきである

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鈴木 謙介『ウェブ社会の思想―〈遍在する私〉をどう生きるか』

「ウェブを利用する私」について社会学的調査と、少々の哲学的アプローチを混ぜた論文風のエッセイ
若者の生態を人文社会科学的手法を用いて分析すれば、若者受けし、それ自体で商売となりますね
Web上で公開された情報を多く拾ってきて文章を完成させていることも目新しい

古谷実の『ヒミズ』を論じている
ハムレット型ではなく、マクベス型の「宿命」であるとして、『ヒミズ』を考察している「決まっているから決まっているのだ」と
大澤真幸シニシズム
北田暁大の「ロマン主義シニシズム論」
八〇年代には「あえて」を選択することが可能だった
しかし、それ以降の世代には「あえて」すらなくなった
という指摘は、大澤、北田の論より、腑に落ちる

後期近代は、超越的視点がないため、「自分がなぜそのように振る舞うのか、自分では理解できない」
そして、「内発的な動機付けを自己言及的に高めている状態」が「カーニヴァル」である
情報社会の諸システムが、この「カーニヴァル」を可能にしている、とのこと

「数学的民主主義」と「工学的民主主義」などという珍用語を使用している六章七章などはちょっと眉唾である

◎チェック
木原善彦『UFOとポストモダン
サンスティーン『インターネットは民主主義の敵か』
仲正昌樹『集中講義! 日本の現代思想』……セカイ系と絶望系?
浅羽通明『右翼と左翼』

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千野帽子『文學少女の友』

・少女風の語り口を通していて、ボケたおし文体
・まれにおっさんとしての本音が出て、オカマ臭い
・小説を愛する姿勢に好感が持てる
・千野はキモイ系文芸評論家として、小谷野の次席となりそうである
・今は昔の話。二十世紀における文芸評論家はマッチョ系の人たちであった。しかし、二十一世紀の文芸評論家は皆、キモイ系となる。これは歴史の必然である(ヘーゲル的な意味で)。大きな物語が崩壊し、それでもなお文芸評論に固執するとなると、趣味的なものへと埋没せざるを得ないからである。文芸評論家は小さなセカイに閉じこもり箱庭的な物語を愛でる
・千野はウェブでの文芸系記事をよくチェックしていて、適宜導入している。全般的にウェブの使い方がうまい
・最近、「純文学」は海外にあるかないかという論争をWebで目にした
ようは、「水」=「water」かどうかというお話だろう
本書では、「純文学」について次のように簡単にまとめている
「純文学という言葉は、もとは北村透谷が、学問のためではない非実用的な芸術的文章といったニュアンスで使ったものだそうです。それが、大正期に白井喬二らが大衆文学・大衆文芸といったジャンル名称を掲げて、「文学」から独立しようとした動きに反応して、非「大衆文学」サイドがあとから「純文学」を、特定ジャンルのラベリングをしない小説として使用することで、現在の意味になったという」

p.94 1980年代まで、「教養」は男子の病いでした

幸田文、森田たま『今昔』→スロウライフ市場
→「アンチ等身大、美意識優先という点で、もちろんあのゴスロリ市場に匹敵する人工性&バリバリ暗黒な妄想力を持ってます」
⇒この観点は気付かなかったが正しい指摘

○チェック
三浦雅士『青春の終焉』
乙一
西尾維新
河合隼男『ファンタジーを読む』
サバテール『物語作家の技法』
ユリイカ 二〇〇六年二月号」「ニート特集」
正宗白鳥自然主義盛衰史』
野溝七生子『山梔』
尾崎翠第七官界彷徨
森田たま『石狩少女』
小沢英実『文化系女子カタログ』
杉浦由美子『オタク女子研究――腐女子思想体系』

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デリダ『コーラ』

プラトンティマイオス』における「コーラ」=「場」について論じているよう
「場」とは、「同一性」「二項対立」を逃れ去るものである
フェミニズム、建築とも関わるらしい
よく分からん
西田の「場」の論理とはなんか関係があるの?
「同一時間、同一空間には、二つのものが存在できない」とか

・たぶん、コーラとは「神」「最高存在」のことだろう
・あなたも、「女」であることをやめて「神」になれる。きっと

・『ティマイオス』の宇宙開闢説におけるロゴスの終りたるテロス
ヘーゲルの論理学とアリストテレス形而上学
イデア的、叡智的なものと、感性的なものの間の深淵
・感性的でも叡智的でもない「母」という「場」
ソフィストは固有の「場」を持たない
プラトンアリストテレス的な真面目さに対して、「戯れ」/「真面目なもの」という対立措定の同一の使用を成す
・コーラは、乳母でも母でも女でもなく、カップルを成さず、独自の個物である
・存在の二つの形式に対する、第三のジャンル

守中高明
・コーラは、延長のうちに位置付けることができず、存在者としての限定を欠く
p.103「コーラをめぐる記述を「教育的なメタファー」と見なす伝統を批判しつつ、それが告げている事態を字義通りに読み解くデリダによれば、「叡智的なもの」でもなく「感性的なもの」でもない「第三のジャンル」とプラトンが呼ぶものは、存在者の三つ目のジャンルではないし、存在の反対物=非存在でもない。また、この点が肝心だが、フィクションとして想定され、やがてしかるべき仕方でロゴスへと止揚されるべき神話素なのでもない。それは、それ自体としてのいかなる実質も欠いた何か、ロゴスの言説によってはただ「〜でも〜でもない」としか表現され得ないような非‐固有性そのものであり、したがってそれは、弁証法に対してある特異な関係を持っている」「いわばそれは対立措定の非‐対照的な外部を構成している」

○チェック
プラトン『国家』『パイドロス
クリステヴァ『詩的言語の革命』