エドワード・ケアリー『望楼館追想』

望楼館追想
望楼館追想
posted with amazlet on 07.04.20
エドワード ケアリー Edward Carey 古屋 美登里
文藝春秋 (2004/11)
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エドワード・ケアリー『望楼館追想』(二〇〇二、文藝春秋)を読んだ。
面白かったですね。
感動しました。
イギリスの現代小説。
二〇〇〇年出版。
一九七〇年生まれの作者の、三十歳時の作品。
神経病と盗癖のある中年の男が、それらの障害を克服し、愛を見つける話。
このようなストーリー紹介の仕方は語弊があるのだけれども。
この作品はとってもおしゃれであり、文の端から端まで、ハイセンスな香りが漂っているからだ。
その表面におけるシックな印象と、裏に潜められた悪意とのギャップに、難解なものを感じる読者もいるかもしれない。
純文学作品だが、ゴシック・ロマン的。
ミステリ風なところもある。
いくらか春樹風だなと思っていたら、やはり春樹が好きとのこと。
綿密に構成された大作。
想像力豊かで、哲学的陰影にも富んでいる。
ちょっと作りすぎなエピソードもあるけれども、おおむねリアリズムが貫かれている。
本作の特徴をいくつか並べる。
ひねくれていて、屈折している。
イロニーが効いていて、ブラックユーモアの連続。
サディスティック。
しかし、根底には上品さを失わない清潔感がある。
インテリなのにインテリらしさを見せず、お茶目。
主人公は社会的な底辺へと転落した上流階級の血筋の人である。
そのことに由来して、上に挙げた特徴が出てきているのだろう。
武士は食わねど高楊枝、みたいな。
ちょっと違うかな。
社会的な名誉は致命的に失われてしまった。
自己を支えていたルーツは消えゆこうとしている。
しかし、それでも精神の自立性を失いたくないという、哀切な郷愁が深い陰影をもたらしている。

作中では何度か「内面の不動性」「外面の不動性」といった言葉が登場する。
なぜか「不動性」という観念に、主人公はこだわるのだ。
主人公は思い出の品物をコレクションし、蝋人形を愛する。
どうしてなのだろう?
人間は動くものである。
生き物は動くものである。
生き物は、本来、とまっているようにはできていない。
もしも人間が動かなかったとしたら?
それは、寝ているか、死んでいるかのはずだ。
「とまっているもの」とは、「物」である。
しかし、どんな「物」も、恒久普遍に「同じ物」であるわけではない。
「鉄」だって、時間の流れとともに錆びる。
恒久普遍に同じものであるもの。
そのような仮想的存在が、「神」だと呼ばれることもある。
「不動の動者」といえばアリストテレスにおける神のことだ。

主人公はなぜか執拗に、他人のものを盗む。
それも、他人の大事にしている物をこっそりくすね、自分のコレクションにしてしまう。
犯罪癖や病癖を主人公は持つのだが、それを「犯罪」や「病」として、語り手が名指さないまま、話が進められている。
「ツッコミ」のない「ボケ倒し」のごとき語り。
一人称の語り手により話が進み、客観的な主人公の像がつかみにくい。
この点での似たタイプ小説をあげれば、たとえば、カミュ『異邦人』とか、サリンジャーの作品に近いところがあるのじゃないか。
悪ぶっている。
けれども、本当は淋しいから悪ぶっているのじゃないか?
「嫌われる」という形でいいから他人と関わりたいという倒錯した欲望。
「好きな子に嫌がらせをしたい」みたいな気持ち。
ひらたく言えば、そんなものかもしれない。
見方によっては、幼い。
しかし、それだけに留まらないこの作品の魅力は、どんなところから生じているのだろう?
翻って考えてみる。
人間は、どうして「物」を大切にするのか?
人間は「物」を愛し、「物」に「自分」を封じ込めざるをえないものなのか?
盗まれる側にも、「物」への執着があったのだ。
人間は、「物」の価値へと引き寄せられる。
「精神の価値」は見失われている。
主人公は、他人にとっての「物」の価値というものの「負」の側面を引き受けだのかもしれない。

それにしても、ビョーキっぽい主人公だ。
「洗滌恐怖」「接触恐怖」等の精神病、「強迫障害」も目立つ。
それらの「心」のあり方がのズレは、どこから生じ、どのようなものだと評価できるのか。
これらの病は、生きてあることの自明性に対する、強力な疑いから生まれてくる。
物を愛することと人を愛することはどのように異なるのか。
「精神」と「物」はどのように交錯するのか。
人間と人間は、「言葉」と「言葉」を食い違わせてしまわないものなのか。
「永遠のもの」はどこにあるのか。
主人公が、ヒロインをかたどった蝋人形にキスをする場面には衝撃を受けた。
日本の純文学はしばしば、私小説的なものにかたよりがちだ。
強力な想像力で「もう一つの世界」を作り上げた本作の胆力は見事である。
人間とは何か。
物とは何か。
哲学的な思索にたゆたえる名作だ。
久しぶりにいい現代文学を読みました。

第4回『必読書150』を読む会を行います。

時枝誠記国語学原論』(岩波書店・絶版)が課題図書です。2006年、8月6日(日)、法政大学市ヶ谷校舎、大学院棟703号にて、15:10開始、18:20終了の予定です。飛びこみ参加も歓迎いたします。どなたもお気軽にお越しください。

第2回『必読書150』を読む会、埴谷雄高『死霊』を読む会報告

参加者は五名。文学的な能力の高いメンバーが集まる。某君の『死霊』五章、六章に関するレジメが面白い。松平はどうも社会科学的、哲学的なネタで演繹的に文章を構成してしまう癖があるけれども、某君の対象を扱うにあたっての表現力と想像力の働かせ方は、文学のメインロードを歩みうる可能性を持っているよう。「日本文学の近現代専門」向きの、固有の文章センスを持っているようなので、ぜひこの方面の能力を伸ばしていくのが良いでしょう。
 あちこちの分野の話題へと多様に逍遥する読書会となった。そもそも、学校のゼミの良さは、自分の思いつきが世間に通用しないことを教えてくれることにある。文章を一言一句緻密に書くべきことを教えてくれる。自己の基礎力の低さを教えてくれる。しかし、今後世間の潮流となっていくかもしれない、逆説的で根底的な言葉の一群は、やはり、若い者たちが、若い者たちだけで集まるなかでこそ、醸造されうるのではないか。ご年配の方から見て妄想の集積に似た雑談であったとしても、それが、新しい時代の訪れとともに、一つの新たな学的体系や、一篇の壮大な叙事詩へと花咲きえないとも限らないではないか。若い人の心の「本当」に踏み込み、世間で「今」「そこ」に生じている現象に踏み込み、若い者どうしの交流を深めること。それをこの会合の目的にしていきたい。
 次回は西田幾多郎の『善の研究』に決まる。日文科畑の人が集まっていたので、この題材の決定はやや意外ではある。みんな哲学にも興味があったのだと知り、嬉しい。まあ、日文科にいれば日文のものは読めるわけだし、集まらなければ読む気になれないものを読んだほうがいいのだろう。候補としては他に、時枝誠記柄谷行人ウィトゲンシュタイン九鬼周造和辻哲郎等が上がる。ぼくはどの人の著述にもおおいに興味があります。

第3回『必読書150』を読む会、西田幾多郎『善の研究』読書会

第3回『必読書150』を読む会、西田幾多郎善の研究』読書会を行います。2006年、7月2日(日)、法政大学市ヶ谷校舎、大学院棟703号にて、15:10開始、18:20終了の予定です。飛びこみ参加も歓迎いたします。どなたもお気軽にお越しください。
善の研究 (岩波文庫)
場所

ネットツールと実生活

インターネットツールの位置づけ方について考える。4〜9がインターネットツールである。1〜3はそれらに対照させるために置いてみた。
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*この表は縦に見る。
① 一人でいること・孤独

② 恋人同士が会って語らう
③ 電話・メール

④ MSNメッセンジャー・チャット

⑤ SNS 
⑥ ブログ
⑦ 掲示板(BBS)
⑧ ホームページ(サイト)
⑨ 電子アーカイブ
ここで、ぼくは、①から始まり⑨に至る過程とは、主観から客観、私的なものから公的なものへと至る過程だと考える。
########################
*上のツール・交際方法の特徴を、線形に並べてみる。番号は上のものと対応している。この表は横に見る。
  ①# ②……③#  ④#  ⑤……⑥……⑦……⑧……⑨
一人目  二人目      →三人目→              
主観←                             →客観
     私的←                        →公的
     互酬的・共同体的←                →グローバル
今・ここ・此岸←                        →彼岸
     流行←                        →不易
     短い・断片的← 一文の長さ・思惟の継続      →長い・論理的
     デレデレ←       態度           →ツンツン
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 人間が一人でいること、二人でいること、三人でいること、これらはそれぞれがそれぞれに必要なことであろう。それぞれの状況に適した、細かな特徴の違いを持つシステムを現代の資本主義制度は用意してくれている。必要に応じてうまく使いこなせば、より文化的で豊かな生活が営めるのだろう。
 二者間での会話について考える。たとえば、ある人とある人が始めて出会ったとき、天気に関する話題をするかもしれない。また、ある恋人たちは、昼ごはんに何を食べたのかをメールで送りあうかもしれない。これらは、それらの伝達しあう具体的なことがらというよりは、互いが互いに対し怒っていないということ、互いの存在を認め合っているということ、必要としあっているということを、伝え合うことが主要な意味内容となっていよう。互いの互いへの承認を表す記号として、日常的な言葉が消費される。誰からの承認も受けずに一人で生きていくことは、人間の本性的に不可能であろう。掲示板やブログも、この目的の延長上で使われることがある。一方、掲示板やブログは論争的であることを目的とした場合もあるのだろう。これは自意識の問題と関わる。「やさしさ」と「共同体」、「攻撃性」と「自意識」、それぞれへの欲望が、個人個人へと立ち上がってくる。 
 文体とインターネットツールの関係についても考えてみよう。おのおのの状況、おのおののインターネットツールは、ある程度、特定の文体を要請する。MSNメッセンジャーやチャットは、交互の会話が基本となり、相手の発話に対し、短い時間で返答を打ち込まなければならず、さらに、記録も残らないため一文は短くなる。携帯のメールもそうだ。思惟形式が断片的になる。
 掲示板はある意見の上に、別の意見が覆いかぶさる形で流動していく。論争的になることもある。短い発言で、それまで成立していた意見から外れたことを述べ、前の発言者の意見をつぶしたりする現象も起こる。この場合、言葉の「受け取り手」の側が際立って露出する。消費者の側に立った論理を、掲示板は示しやすい。掲示板ではメールやチャットよりは長い文章が可能だが、ある程度以上の長さは不可能である。
 ブログはそこで発話されたことに対し、聞き手の側が見えにくい。発言者同士での衝突や、発言者と聞き手の間の齟齬が目立ちにくい。文体としては長めになる。内容は独り言的ないし一人語り的になることが多いのだろう。
 媒体が文体を規定する。もちろん、個人の資質は重要な要素だが、システムやツールが思惟形式を決定する面も持っていよう。

解説しよう

電脳RESの読者数は多くはないけれども、ネットに大変詳しい方と、普段ネットをあまりお使いにならないかたの、双方にごらんになっていただいている。とくに後者の方を対象にしつつ、松平が手を出しているネットツールのそれぞれについて解説しましょう。間違いがあったらご訂正ください。

1 ホームページ(サイト) 「電脳R.E.S.」(hi-ho)
http://www.gem.hi-ho.ne.jp/yamame/
 特徴 抽象性が高く、時間をかけて真面目に書いた重めの文章を載せている。めったに更新をせず、めぼしいものをのせたときはブログか掲示板でその旨をことわる。

2 掲示板(BBS) 「分野を超えた知的交流を」(teacup掲示板)
http://6106.teacup.com/koichi/bbs
 特徴 「会話のデッドボール」率高し。誰もが不可解に思う、ファンタージーグロテスクスピークを展開中。「分野を超えた知的交流を」の掲示板は、作ってから二年と少しであるが、「teacup掲示板」自体はそのまえにも長く愛用していて、松平が利用するようになってからもう、八年目になる。誰かから書き込みがあったときに、それに対する返答を返す、といった形で運営をしている。ぼくにはこの掲示板の長所と短所はすでによく分かる。
 会話とは「私」と「あなた」の二人により営まれる行為である。もしも「私」と「あなた」の二人以外を想定しないでものをしゃべるとしたら、それは「私的」な会話である。たとえばメールや電話は「私的」な会話である。掲示板はそれらとは少し事情が違う。「私」は「あなた」に向かってしゃべりかける一方で、「あなた」以外の人にもしゃべりかける必要がある。ここで、「三人目」という概念を提唱したい。「私」は「一人目」である。「私」がいなければ世界はない。しかし、人が発話を行うときは必ず、「二人目」が必要だ。これが「あなた」である。人は一人ではものをしゃべることはできない。どんなに一人ごとに見えるつぶやきがあったとしても、なにかがつぶやかれたとき、そのひとにとっての「二人目」、「あなた」がその人の脳内には想定されている。さて、「私」と「あなた」の二人の間で合意が成立したとする。しかし、人間は社会的な動物である。そのため、「私」と「あなた」の二人だけの関係が成立したとしても、「私」と「あなた」の間の合意に対し、合意を示さない第三者も不可避的に生じそうである。これが「三人目」だ。掲示板においては、「わたし」と「あなた」からなる「私たち」に対して、客観的で冷静な批判を抱いて黙っているかもしれない、「三人目」の攻略が重要なポイントである。この「三人目」の視点を持ちうるかどうかで、その掲示板が内輪のやりとりに過ぎないものか、公的で普遍的な内容を含みうるものになるかが決まる。「三人目」的であるということは、ニーチェ的であることなのだ。……などと考えていたら、「わたし」と「あなた」の会話さえ成り立たなくなってしまった。本末転倒でした。どんなつっこみでも拾いますので、松平が嫌がりそうなことでも、なんでもいいですので、どんどん書いて欲しいです。

3 掲示板(BBS)「必読書150を読む会」(advenbbs)
http://sea.advenbbs.net/bbs/rec3776.htm
 特徴 この「advenbbs」は凄い掲示板である。まず、無料でアクセス回数が記録されるところが凄い。いくつもスレッドが立てられて、それぞれのスレッドにたくさんのレスが重ねられる。さらに、新しくレスが付けられたスレッドがトップに来る。つまり、「埴谷雄高」とか「夏目漱石」とか「ハイデガー」でスレッドをたてて、それぞれの議論を深めていくことができる。みなさんも自分の専門としている作家、学者のスレッドをたてて、気軽に問題提起をして欲しい。一番凄いのは、146もカウンターが回っているのに、荒らしや広告ですら、書き込まれないことかもしれない。このままでは削除されてしまう可能性もある。気長に待っておりますので、ぜひご利用ください。

4 ブログ 「電脳RES」(はてなダイアリー
http://d.hatena.ne.jp/yamame1/admin
 特徴 「はてなダイアリー」では、あるキーワードから、その同じキーワードを持つ他のブログへとジャンプできる。また、レビューを書きやすい。インテリの利用が多いとか。「はてなダイアリー」と「mixy」についてはこの雑誌で情報をえました。まあ、ちょっと話が古いのかもしれませんけれども、ぼくは参考になりました。
ユリイカ2005年4月号 特集=ブログ作法 あるいはweblog戦記

5 SNS (mixi)
http://mixi.jp/home.pl
 特徴 共同体的。結論から言えば、「mixy」は様々な仕掛けを配し、「三人目」をできるだけ少なくしようとしている。二者間での対話が成立しやすい。このシステムであったなら、ぼくも「会話のデッドボール」を防げたなと思う。やってみるのが早い、ぜひ「あなた」も参加しましょうよ。完全無料です。「mixy」で知的交流を。

6 MSNメッセンジャー
http://join.msn.com/messenger/overview
 特徴 チャットのようなもの。メールと電話を合体させたような使用感覚。さらに、メールと電話にくらべてほとんどお金がかからない。ダラダラトークが楽しい。情報交換のしやすさが革命的。これさえあればほとんど、家の電話は必要ないでしょう。

mixi始めました。

http://mixi.jp/show_friend.pl?id=4275826
mixyは一口で言えば、「会員制で紹介制」の「ブログと掲示板」です。匿名性が低く、「ブログと掲示板」へとアクセスした人の身元が分かりやすく、プライバシーが守りやすいため、mixiは有用な活用ができそうです。ぜひ、電脳RESをごらんになっていただいている皆さんも、mixiに入り、松平と交流いたしませんか?興味のある方はお気軽に声をおかけください。