E・ブロンテ『嵐が丘』

嵐が丘 (新潮文庫)
E・ブロンテ『嵐が丘』読了。「悪党、ヒースクリフさんに身も心もダメにされてしまいたい!」そんな怪しい心が芽生えざるをえない。作者はアイリッシュケルトの血を引くイギリス人。反キリスト教的で悪魔的なところがありつつも、ハイセンスなオクシデンタリズムを楽しめる小説。あるご年輩の女性の先生が、「わたしはね、『嵐が丘』がだいだいだあい好きなの!」とおっしゃていたことがあって、そのおっしゃりようが強烈なインパクトとして残っている。『嵐が丘』のお好きな方って、なんだか育ちの良さそうな雰囲気がする。

論理の美

本書では、先行研究の成果ではいまだ不明瞭な箇所を含んでいた万葉歌を取り上げ、必要にして十分な引用により裏づけを取りつつ、問題となる万葉の歌の一言一句を精緻に分析し、蓋然性の高い新たな解釈を打ち出している。各章で論じる対象となる中心的な歌は数首である。歌の内容についての善悪美醜の価値判断や、実体的な文化風俗が中心的に追求されるわけではないのに、これに対する本書のボリュームはなかなかのものである。筆者の精力は多く、言語的な問題へと傾けられる。言語にまつわる基礎的な知識を提示したうえでそれらを、門外漢のものでも分かるような、明晰で論理的な筋道により組み立て、説得力のある論を提示している。読者は本書にクリーンでさわやかな「論理の美」を味わうことができる。万葉歌を論じた研究書であるというのにとどまらず、それをなす過程で、現代の私たちが空気のように用いている言葉が、どのようになりたっているものなのかを逆照射してもいる。起承転結がしっかりしていて、推理小説の謎解きのような知的快楽が味わえるが、大衆文学には欠落した香り高い古典の品格をも味わうことができ、国語教育の理想的な一定型を暗示してもいよう。

清水博子『カギ』(二〇〇五、集英社) 初出 すばる二〇〇三年十月号

インターネットに掲載された日記を題材とした小説。これといった個性のない普通の人のようだけれども、裏に精神的な「病い」のようなものを抱える「妹」と、辛らつなところのある「姉」の、それぞれの日記が交互に紹介されて、テキストが織りなされている。谷崎潤一郎の「鍵」(一九五六)を下敷きとした小説であり、二人の人物の日記が全体の小説を形作る点で、『カギ』は「鍵」と同一の構成を持つ。しかし、谷崎の「鍵」は一日の記録が長く、全体の筋のために細部の描写があることが明白だが、一方『カギ』では一日の記述が一行から数行のことも多く、思惟の流れが分裂的である。また、大部分は衣・食・住でどのようなブランドを消費したかという記録であり、相互のつながりの希薄な、日常的なつぶやきが繰り返される。「妹」は不特定の他者や夫から、ネットでの日記の発表について批判を受ける。一時的には日記をやめてしまうこともあるが、周囲の声にもめげず、日記を復活させ継続する。そのあくなき表現への欲求はやや異様にも見えるが、いったい何が「妹」を駆り立てているのだろうか。そもそもネットにおける日記は、私的領域と公的領域の境を侵食している。「私」とは、私的領域においてはある特定の他者に対して「私」であり、公的領域においては不特定多数の他者に対して「私」であるものだろう。「妹」は、私的領域で満たされない疎外の感覚を、公的領域とつながることで払おうとしているのかもしれない。「妹」は自己の凡庸さに気づかずに、それでも公的領域に自己への承認を求め、その結果家族や、不特定の読者から冷笑を買っている。この「妹」の書くウェブ日記から、「悲惨な」印象を読者は受けるかもしれない。しかしこのような「悲惨さ」は、多かれ少なかれ、誰しも陥りうるものなのではないだろうか。谷崎の「鍵」が推理小説的で明快な結末を持つのに対し、「カギ」がもたらす読後感の悪さには、何かしら本質的な問題が含まれるように思われる。

第2回『必読書150』を読む会について

埴谷雄高『死霊』読書会(2)を行います。2006年、5月21日(日)、法政大学大学院棟703号室に15:00時集合で、15:10開始、18:20終了の予定です。飛びこみ参加も歓迎いたします。どなたもお気軽にお越しください。

劣等感と美

公房の一九六四年の作品。顔面にケロイド瘢痕を受けた男が、プラスチック製の仮面を作り、「他人の顔」を獲得して妻を誘惑するが、二人の信頼関係は破綻し、悲劇に至る。ところで、三島の『金閣寺』(一九五六)の主人公は、吃音という障害を負い、他者への強い劣等感を抱える。それがゆえに一層、「金閣寺」は主人公の目に美しく映え、彼は「悪」へと遁走する。公房の『他人の顔』でも主人公は、自己の顔への劣等感により、他人や妻への不信感を募らせる。この主人公は共同体からはじき出されたアウトサイダーである。そして、公房の凄さは、加害と被害を反転させる視点にある。公房流の逆説的な警句は各所にちりばめられているが、秀逸なのはたとえば次のような記述だ。「フランケンシュタインの怪物のことを書いた小説は面白い。ふつう、怪物が皿を割れば、それは怪物の破壊本能のせいにされがちなものだが、この作者は逆に、その皿に割れやすい性質があったためだと解釈しているのである。怪物としては、ただ孤独を埋めようと望んだだけだったのに、犠牲者の脆さが、やむなく彼を加害者に仕立て上げたというわけだ。」この書で展開されているのはある種の――語義矛盾かもしれないが――「普遍的な」「マイノリティ」論である。そしてまた、次のような記述である。「痴漢は、自分の欲望に、苦痛と悔恨の涙をそそがなければならない」「痴漢とは、おおむね、いったん謎を自覚した以上、どんな犠牲をはらってでも解かずにはいられない、律義者の探求者のことなのだ。」自己と他者との適正な距離とは、成長の過程で獲得されていくものであり、自明なものでも先天的なものでもない。繰り返される経験の中で身体化される「禁止」である。美は、自己と他の決して埋められぬ距離の「抑制」が生み出すものであり、この地点からこそセクシャリティがうみだされる。作中で「妻」は次のように書く。「愛というものは、互いに仮面を剥がしっこすることで、そのためにも、愛する者のために、仮面をかぶる努力をしなければならない」。この言葉は正確に、三島の『仮面の告白』(一九四九)への公房による応答であり、批評であろう。公房の文体は三島のものほど美しくはないが、公房の抽象力と論理的思索力は三島を凌駕する。そして私たちは、私たちの有する劣等感を払いのけて、表面的な美や、悲劇に、埋没しない道を探っていく必要があるのだろう。

自己紹介

自己紹介をするとき、ぼくは、「日本の近現代文学が専門です」と述べることになる。しかし、哲学科や英文学科の方たちとしゃべると常々気づかされることであるけれども、大学の人文系の方やインテリの方はたいてい、日本の近現代文学を多くよんでいらっしゃるもので、教養のある方と話をすると、しばしば自分の方が日本文学を読んでいないことが露出し、それが本当に自分の専門なのか、自分で自分が疑わしくなる。世には多くの本があり、出版された本のすべてを読むことはできないものであるし、大学で研究対象とされうる書をまずおさえなければいけない。歴史の風化にたえて、残っている古典をまず読もう、というのが近年ぼくが考えていたことであった。古典のなかには、面白い本がたくさんある。プラトンの『饗宴』など、文学性がきわめて高くはないか。アウグスティヌスの『告白』は、私小説の究極的な姿ではないか。哲学書に、甘美な文学を感じることがある。極論的な逆説かもしれないが、哲学者も社会科学者も、ある種の文学者なのではないか。そんなふうにとらえはじめると、なかなか一般的な小説に、シンパシーを感じなくなってしまったりもする。松平さんは文学が本当に好きなんですかと、同じ日文科の某君にしばしば怒られたものだ。たしかに、ぼくはいい小説読みでないかもしれない。しかし、思想が好きであり、物事を深く考えることが好きである。「半文学」で、「半私小説」的な探求を今後も続けていきたい。著名な古典を中心に読もうというスタンスは今後も続くだろうけれども、一方で、最新のジャーナリズムの潮流も気になってはいる。新しい思想や小説も、ちらちらと、観察できるようになっていきたいと思う今日この頃。

蔵田君主催の読書会に参加する

 どうもこのところ、五月病気味でやる気がなくなりボケーっとしていた。欝なので、ちょっと表へ出ようかと思っていた。それで、蔵田君主催の読書会に参加させていただいた。題材は岩井克人の『貨幣論』。集まっているメンバーは皆さんインテリで、社会的な身分も確立なさっていて、ジャーナリズムや現代文学の動向についてもとりわけ詳しく、はあ、凄い方たちもいるものだなあと驚く。皆さんのお話をお聞きするうちに、『貨幣論』のよく分からなかった所がいろいろと明らかになり、有益だった。しかし、ぼくはちょっと、空気の読めていない発言や行動をしてしまったのではないか。また、飲み会ではお酒を飲みすぎてしまったのではないかと、翌朝反省した。数々のご無礼、申し訳ございません。ご迷惑をおかけいたしました。 
 岩井克人の『貨幣論』は、ぼくは十分に理解できたわけではないけれども、『資本論』の「価値形態論」をシンプルにまとめていたりして、ロジックが明快で分かりやすい。ヘーゲル弁証法マルクスの価値形態論の連結、それらがアリストテレスヘラクレイトスとどう関わっているのか。また、ソシュールの言語論や、存在論と論理学との関係などについて、ぼんやりと考える。おそらく、「最後の審判」の日から数えて現在を眺めると、貨幣は価値を失ってしまうのだ、というくだりはこの書の一つの焦点だろう。「最後の審判」なんて仰々しい言葉を使わなくても、人間死ぬときゃ一人だし、死んだ後の世界でお金をもっていても仕方がないよ、とでも換言できそうだ。あえて「最後の審判」という比喩をもちだしているのは、資本主義には特有の時間意識がその貨幣の本質的な部分に内在し、それらが人間の行動と思惟を支配していて、それらは実は、キリスト教圏の歴史概念に由来するものだ、ということなのでしょう。たぶん。
 いまぼくは円地文子の小説『女坂』の問題について、考えている。明治初期、大金持ちの地方官吏が、妻妾を同居させ、さらには小間使いや長男の嫁にまで手を出す。奥さんは文句も言わず、旦那さんや息子や孫の不行跡の後始末をして回る。妾として十代半ばの女の子が人買いのように家に連れてこられて、中年のころに家から放り出されそうになるのだ。この物語をフェミニズム的、ジェンダー論的に読み解かねばならない。それは、価値形態論と、ポラニーと、ウォーラースティンと、言語論の方向からアプローチすべきであるように思われる。なんとなく。

貨幣論 (ちくま学芸文庫)

貨幣論 (ちくま学芸文庫)